中華英雄4コマ列伝!! 第27回:陸遜(りくそん)

文:中国エトセトラ編集部

陸遜(りくそん 183~245年)

後漢~三国時代。江東の名門・陸家の出身。陸家はもともと孫家と仲が悪く、幾度となく争いを繰り返してきたが、陸遜の代で関係を修復。孫策の娘を妻に向かえ、親戚関係となる。その後、呂蒙に才能を見出された陸遜は、荊州攻略の最前線に派遣され、敵将・関羽を討ち取ることに成功する。この功績から、蜀と雌雄を決する"夷陵の戦い"で総大将に任じられるものの、若年のため諸将に軽んじられ、思うように指揮を取れず苦労したという。

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「蜀軍を自陣深くに引きつけ、延びきった補給線を叩く」という作戦が功を奏し、見事、夷陵の戦いに勝利した陸遜。これを機に、彼に不満を持っていた諸将も心服するようになり、陸遜は呉の重臣として八面六臂の活躍を見せるようになる。ちなみに、陸遜が石兵八陣の攻略に乗り出すくだりは「三国志演義」オリジナルのエピソードである。

第44回:映画『運命の子』の原典、中国で愛され続ける「趙氏孤児」とは?

文:中国エトセトラ編集部

この世に生を受けた直後に、一族たったひとりの生き残りとなった趙氏孤児、後の趙武。まさに“運命の子“である

産まれたばかりの子の身を案じながらも、殺された夫・趙朔を追って自害する荘姫。その悲劇に。涙せずにはいられない

『運命の子』では、趙氏孤児を殺し損ね、屠岸賈に顔を切りつけられる韓厥。彼も自らの復讐も、運命の子へ託すことに

成長した孤児は、一族の復讐という運命を背負い、屠岸賈と対峙する…。映画ではよりドラマチックな脚色がなされている

陳凱歌(チェン・カイコー)監督が『花の生涯~梅蘭芳』以来、二年ぶりにメガホンをとった『運命の子』。日本では年末にリニューアルした東京、渋谷のBunkamuraル・シネマにて、その他、札幌、名古屋、大阪、福岡でもミニシアター系映画館で公開が始まった。
この映画の原典とも言える物語「趙氏孤児」は、中国では有名な物語で、春秋戦国時代の晋で実際に起きた事件が元ネタとなっている。古くは、孔子が編纂したと言われる『春秋左氏伝』に記されているが、司馬遷の『史記 趙世家』のほうが物語的な完成度は高い。『史記』にしたがって、事件の流れを追ってみよう。

春秋時代の悲劇が、すべての始まり

紀元前7世紀の終わり頃、暴虐君主として知られる晋の霊公が臣下によって殺され、その弟が即位した。晋の成公である。霊公の寵臣だった司寇(法務大臣)の屠岸賈(とがんこ)は、この事件を政敵の粛正に利用しようと謀をめぐらす。晋の有力な臣下である趙氏に霊公殺害の疑いをかけ、その一族を滅ぼそうとしたのだ。先代の国政だった重臣の趙盾(ちょうじゅん)は、かつて霊公に殺されそうになり、国境近くまで逃亡したことがあった。霊公はこの間に、趙盾の一族の者に殺害されたのだが、晋の史官は趙盾の責任を重く見て、「趙盾が君を弑した」と歴史書に記録していた。屠岸賈はこれを利用して、趙盾が霊公を殺したと強弁したのである。 晋の重臣である韓厥(かんけつ)は、国境に逃亡していたという趙盾のアリバイを主張したが、趙氏抹殺をはかる屠岸賈の前では、どんな真実も無意味だった。趙盾の子で、趙氏の当主でもある趙朔(ちょうさく)は、韓厥から「早く逃げよ」と言われるが、、何故か忠告を拒む。趙朔の妻は、成公の姉だ。趙朔は、君主が屠岸賈の暴走を止めることに期待をかけていたのだろうか。だが屠岸賈は、成公の許しを得ることなく、諸将を率いて趙氏の家を包囲し、ついに趙朔をはじめとして、その一族を皆殺しにした。

このとき、なんと趙朔の妻は身ごもっていた。夫人は実家である晋公の屋敷に逃げ込み、やがて男子を出産する。これを聞きつけた屠岸賈は宮廷中を捜索し、子供を殺そうとした。君主の意向を無視して重臣を殺戮するような男だ。奥御殿の家捜しなど朝飯前である。必死の夫人は、袴の中に子供を隠し、「趙氏が滅びるならば泣くがよい、そうでないならば、泣くでないぞ!」と天に祈る。その祈りのかいあってか、屠岸賈は赤子を見つけることができず、趙氏ただ一人の生き残りは、趙朔の友人・程嬰(ていえい)へ託された。この子が、映画のタイトルでもある「運命の子」=趙氏孤児というわけだ。ちなみに、『春秋左氏伝』ではこの趙朔の妻は、趙朔の兄弟と不倫の関係にあり、屠岸賈を利用して趙氏を滅ぼさせた稀代の悪女とされている。
程嬰と趙朔の食客だった公孫杵臼(こうそんしょきゅう)は、子供を救うため捨て身の一計を案じた。公孫杵臼が身代わりの子供を背負って逃げる間、程嬰が恐れながらと訴え出て、「自分は趙朔の子をあずかったが、趙氏再興など、とても手に負えない。千金をもらえるなら、誰にでも子供の居場所を話す」と言ったのである。屠岸賈は程嬰を連れて公孫杵臼の後を追い、ついに山へと追い詰めた。公孫杵臼は、最初は子供の命乞いをし、それが叶わぬと知ると、程嬰を裏切り者と激しく罵倒し、赤子とともに殺された。こうして、趙氏孤児の生存を知る者は、程嬰のみとなったのである。

仇討ちと友情の故事は、庶民に親しまれる物語へ

15年の歳月が流れ、晋の君主は成公から景公へと交代したが、景公は健康がすぐれなかった。大臣の韓厥はすでに年老いていたが、程嬰からの知らせで趙氏の子が生きていることを知っていた。そして、「君の健康がすぐれないのは、先代が趙氏を滅ぼした祟りでありましょう」と言上したのである。景公はすぐに韓厥に命じて、趙氏の子を召し出した。韓厥は君命が下った勢いを駆って、趙氏を滅ぼした屠岸賈の罪を問い、屠岸賈の家を滅ぼしたのである。こうして、山に隠れ住んでいた趙氏の子=趙武は家を再興し、やがて成人すると晋の国政に参加して名臣として名を残すのである。 ところで、趙武を育てあげた程嬰はどうなったのだろうか。趙武が成人し、冠を頂いた日のこと、程嬰は趙武に申し出た。「私の役目は終わった。公孫杵臼に約束を果たしたことを告げたい」。泣いて引きとどめる趙武を後にし、程嬰は趙氏の屋敷を去った。そして自害したと言われている。

仇討ちと男の友情をテーマとするこの物語は、いつのまにか歴史書の枠を抜け出し、庶民に愛されるようになった。そして、元の時代の戯曲作家紀君祥によって脚色され、あらゆるジャンルの芝居で演じられるようになったのである。そこでは、人間関係がより劇的に構成され、趙朔の妻・荘姫(そうき)は、子供を程嬰に託した後、夫を追って自害する。また、公孫杵臼が趙氏孤児の身代わりに背負うのは、生まれたばかりの程嬰の子供だ。
「趙氏孤児」の人気は、中国のみにとどまらず、外国の演劇にも大きな影響を与えた。18世紀のフランスの小説家ボルテールの『中国の孤児』もその一つである。また、歌舞伎の演目『菅原伝授手習鏡』や『伽羅先代萩』に盛り込まれた、友情や忠義のために自分の子供を身代わりにするシーンにも趙氏孤児の影響を見ることができるだろう。
21世紀によみがえった新たな『趙氏孤児』で、陳凱歌はどのような翻案を見せるのか? それも鑑賞の楽しみと言えるだろう。

映画『運命の子』公式サイト
http://www.unmeinoko.jp/

(c) Shanghai Film Group Co., Ltd. Shanghai Film Studio/TIK FILMS/Stellar Mega Films Co., Ltd. /21 Century Shengkai Film

中華英雄4コマ列伝!! 第26回:劉備(りゅうび)

文:中国エトセトラ編集部

劉備(りゅうび (161年~223年)

荊州の新野を守備していた劉備は、南征を開始した曹操の大軍から逃れ、多くの住民とともに長江流域へとたどりつく。ここで、呉の重臣・魯粛から樊口に駐屯することを勧められ呉の船団を率いてやってきた周瑜と対面をはたすのだ。

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ところが、周瑜は敗残の劉備をまったく相手にしていなかった。十歳以上も年の離れた周瑜から「あなたの軍はあてにしないから、戦見物でもしていろ」とあからさまに侮蔑され、魯粛に会いたければ、自分から来いとまで言われて、さすがの劉備も不快に感じたようだ。周瑜の実力で曹操に勝てるとは信じられなかったと述べている。両者の関係は出会いから最悪だったのだ。

イラスト/河伯りょう

第43回:「三国志」トリックスター列伝!

文:中国エトセトラ編集部

非業の死を遂げた父・孫堅亡き後、その遺志を継いだ孫策。周瑜とともに国を盛り立てていこうと奮闘するが…

小覇王と称えられた孫策の人生は、わすか26年で幕を閉じる。果たして、彼は于吉の幻に殺されたのだろうか…?

絶大なる権力を有した魏王ゆえ、憎まれやすかったからなのか、曹操には仙人のようなトリックスターをめぐるエピソードが付きまとう

武将たちが力でぶつかり合い、策士の智謀が火花を散らす『三国志』の表舞台。その蔭に、あやしくうごめく人々がいる。時はまさに世紀末。孫策を呪い殺し、曹操を掌の上で弄び、劉備の漢中侵攻を予言する異能者は実在したのか? その実像にせまる。

于吉(う きつ 生年不詳~200年)

 ロウ(王+良)邪出身の道士で、道教の教典を説くかたわら、護符や聖水で治療を行ったといわれる。呉や会稽一帯の庶民や豪族たちの中には、于吉を信仰する者が多かった。あるとき、孫策は門楼で宴会を開いたが、たまたまそこを于吉が通りかかり、客や部将たちの三分の二までがあたふたと門を降りて于吉を礼拝するありさまだった。これに腹を立てた孫策は、君主の権威に挑戦する者として、于吉を斬り殺した。『三国志演義』(以下、『演義』)では、孫策は于吉を殺したあと、その幻を見るようになり、やがて全身の傷口から出血して非業の死を遂げるのである。

左慈(さじ 生没年不詳)

 廬江の方士で、『演義』では曹操のもとに姿を現し、みかんの果肉だけを消し去ったり、絵から本物の鱸を釣り上げたりと不思議な技を見せる。曹操は左慈を捕らえようと、許チョ(衣へん+者)に後を追わせるが、左慈は羊に身を変えたり、逆に数百人がみな左慈と同じ顔になったりして、ついに処刑することができない。左慈に翻弄された曹操は、ついに重い病の床についてしまう。『後漢書』には、このシーンの元ネタとおぼしき逸話が記されており、曹操の前で数々のイリュージョンを見せる左慈の姿が描かれる。正史によれば、左慈は房中術にすぐれた方士であり、軍の役人に登用されていた。左慈の術は有名だったらしく、『三国志』には、宦官まで房中術に夢中になったという笑い話が載っている。

郤倹(げきけん 生没年不詳) ・甘始(かんし 生没年不詳)

 この二人も、曹操に招かれた異能者である。郤倹は潁川の出身で、穀断ち(一種の絶食)を得意とし、茯苓だけで何日も過ごすことが出来た。曹植はその真偽を確かめるため、郤倹に穀断ちをさせて観察したが、衰弱する様子もなかった。曹植は、「不老長寿かどうかは判らないが、少なくとも飢餓の際には役に立つ」と冷静な感想を述べている。また、甘始は呼吸術による健康法を身につけており、老年になっても若々しい血色をしていた。彼らが曹操のもとにやってくると、都ではその方術が大流行し、茯苓の値段ははねあがり、人々はあらそって健康体操に精を出した。しかし、熱中しすぎて下痢で死にかけたり、中途半端な呼吸法で窒息する者もいたらしい。

管ロ〔車+各〕(かんろ 生没年不詳)

 平原の出身で、卜筮の達人。子供のころから天文を見ることを好み、魏の末年に占い師として活躍した。『演義』にも登場するが、そのエピソードは正史の『三国志』に記される逸話のほんの一部を借用したもの。しかも管ロの守備範囲は、人相見、夢判断、透視、失せ物探しに未来予知と、ほとんど超能力者の域である。中でも「射覆」と呼ばれた透視術についての記述では、中の物体を完全に言い当てるのではなく、おおまかな形状や色から実体にせまり、時にははずしているあたり、かえって信憑性があり不気味である。百人以上の人間の寿命を言い当てた管ロは、最後に自分の死期を予言し、その通りに没したという。

 正史の『後漢書』や『三国志』のほかにも、三国時代から晋にかけての不思議な逸話をあつめた書物『捜神記』には、多くの異能者や怪奇現象が記されている。明日をも知れない乱世にあって、人々は、占いや健康法、超魔術などの不思議な能力に一喜一憂し、時にはその力に頼って生きようとしたのだろう。

第42回:ジャッキー主演作『1911』で描かれる"辛亥革命"の概要を大紹介!!

文:中国エトセトラ編集部

盟友・孫文に代わり、革命軍を率いた黄興。中国の西郷隆盛とも言われ、人望厚い人物を、ジャッキーが見事に体現した。

近代化に尽力した孫文。演じるのは『宗家の三姉妹』『孫文-100年先を見た男-』でも孫文に扮したヴィンストン・チャオ。

辛亥革命で清軍を指揮した袁世凱は、中華民国大総統へ就任し、実験を得ようと画策した。

中華英雄の時代は、辛亥革命による皇帝政治の終焉によりエピローグを迎えた…。

先月より公開中のジャッキー・チェン主演作『1911』。中華民国建国のきっかけとなった"辛亥革命"を、孫文ら革命軍の視点から描いた骨太な歴史ドラマですが、この時代って、日本ではそれほど詳しく知られていませんよね? そこで今回は、清王朝と革命軍、そしてそんな両陣営の間を巧みに渡り歩いた、袁世凱率いる第三勢力の動向に注目しながら、辛亥革命がいかにして行われたのかを、掻い摘んでご紹介したいと思います。

革命に至るまで

1636年の建国以来、200年以上に渡って中国を統治してきた清王朝も、次第に政治の腐敗・疲弊が目立ち始め、18世紀後半には農民層の反乱や、西洋列強の侵略行為が頻発するようになります。やがて、1840年に起こったアヘン戦争で大敗を喫したことがきっかけで、諸外国は中国への進出の勢いを急速に早めることに。それに伴い、太平天国の乱をはじめとした大規模な内乱も続発し、時の権力者・西太后は、これらの問題の解決に奔走することとなります。 ですが、不運はさらに重なり、中国は日清戦争で日本に敗れ、多額の賠償金を支払う羽目に。しかもそのための資金を、国土を担保に諸外国から借用したため、結果的に列強のさらなる領土侵略を許すことになってしまいます。さらにこの間、西洋列強の排外運動に端を発する義和団の乱が、国内の至るところで勃発! これもまた、各国に軍事介入の口実を与えるきっかけとなってしまい、ついには北京の紫禁城までが連合国軍に蹂躙される事態に陥ってしまいます。 ここに来て、ようやく近代化の必要性に気付いた清王朝は、若い世代を海外に留学させ、積極的に諸外国の文化を取り入れようとします。また軍事面でも、西洋の技術力を導入した新たな軍隊が設立され、その総指揮を任されたのが袁世凱でした。

"辛亥革命"の波及

清王朝のバックアップを受けて、西洋諸国や日本に留学した若い政治家たちは、そこで"民族の自立"と"国の近代化"を進めるには、「旧体制を打倒し、共和政体を誕生させるしかない」という結論を導き出します。つまり、皮肉にも西太后が未来を託した若者たちが、清を滅ぼすための革命に乗り出し始めたのです。 なかでも孫文は、民族・民権・民生という"三民主義"を打ち出して、多くの革命家たちの心を捉え、中国各地で蜂起を繰り返していました。一方の清軍では、袁世凱率いる部隊が反乱軍の鎮圧に当たり、両陣営は一進一退の攻防を展開することに。ちなみに袁世凱は、この際の活躍で次第に影響力を増していき、後年には、独立した第三勢力として台頭することになります。 その後も"黄花崗七十二烈士"など数多くの犠牲を出しながらも、孫文や盟友の黄興は戦いを繰り返し、ついに1911年10月、武昌での蜂起に成功します。そしてこれを皮切りに、中国全土に革命の炎が飛び火し、各地の革命勢力も台頭。その結果、全国十八省のうち十四省が清からの独立を宣言することとなりました。 しかし、清王朝も決して屈しようとはせず、両陣営の戦いはいよいよ混迷を極めます。とは言え、これ以上混乱が続くと、諸外国のさらなる武力介入を許すきっかけにもなってしまうため、革命軍は戦いの早期決着を望みます。そこで孫文は、独自の勢力を誇る袁世凱に仲介役を頼み、長い交渉の末、ついに清王朝は権力の譲渡を了承します。こうして秦の始皇帝以来、2000年に渡って続いてきた皇帝政治に幕が下ろされたのです。

革命後の各陣営

こうして清王朝は滅び、中華民国というアジア初の共和国が誕生しました。ところが、孫文は袁世凱に仲介を頼む際、「臨時政府が成立した後、大総統の座を譲る」という契約を交わしていたため、間もなく臨時大総統の座を辞任し、代わって袁世凱が政権を掌握するようになります。 しかし袁世凱は、臨時大総統に就任するや革命派勢力を圧迫し始め、再び独裁政治を行うようになります。これに対し、孫文たちは自由を取り戻すべく立ち上がりますが、政府軍の圧倒的な武力によりねじ伏せられ、海外への逃亡を余儀なくされてしまいます。 やがて袁世凱は、自身を中心とした独裁体制を築こうとするのですが、その目論見は長くは続きませんでした。彼の専横に、諸外国をはじめ国民が猛反発し、さらに政府内部や軍閥からも支持を得ることが出来なかったため、半場強制的に、政治の中枢から失脚することになってしまったのです。 こうして革命の立役者たちが次々に表舞台から姿を消していき、中華民国は軍閥と革命勢力、そして列強諸国が入り乱れる混沌の時代へと突入していくのでした。

※『1911」上映劇場はこちらを参照ください。

※なお、清王朝のその後については、
  中国歴史ドラマ「末代皇妃-紫禁城の落日-」
  映画『ラストエンペラー』でお楽しみください。


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中華英雄4コマ列伝!! 第25回:劉表(りゅうひょう)

文:中国エトセトラ編集部

劉表 142~208年

中国の中央部・荊州を統治した後漢末期の有力者。反董卓連合の主力を担ったり、荊州に攻め込んできた孫堅を返り討ちにしたりと、その実力は折り紙つきで、一時は袁紹と並ぶほどの強大な兵力を誇った。領土的な野心がなく、自ら戦争を仕掛けることはほとんどなかったが、善政をしき、支配地域全体に平和と発展をもたらしたため、民衆からは慕われた。

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野心のなさは、平和な時代ならば"徳"とされるが、乱世ではマイナスに働いてしまうことが多い。晩年は、袁紹と曹操による天下分け目の決戦・官渡の戦いで傍観を決め込んだり、後継者を決められないまま病に伏してしまったりと、優柔不断な面が目立ち、彼が没するやいなや、荊州は瞬く間に曹操に奪われてしまう。

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