第23回:いま再加熱を見せている、モンゴル帝国(=元王朝)ってどんな国!?

文:中国エトセトラ編集部

「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」は4月11日(日)まで開催中

展示物のひとつ、三彩香炉(一級文物)。
元代 内モンゴル博物院蔵

こちらも国宝級の一品、銅鍍金菩薩座像(一級文物)。
元代 内モンゴル博物院蔵

「大明帝国 朱元璋」

「大秦帝国」

世界最大規模の領土を誇り、"元"という国号で中国統一政権を築いたこともある巨大国家・モンゴル帝国。『蒼き狼 地果て海尽きるまで』『モンゴル』といった映画でその生涯が描かれた創始者チンギス・ハンや、二度にわたる元寇で日本史に名を連ね、大河ドラマ「北条時宗」にも登場した5代皇帝フビライなど、日本人にとっても馴染みの深い英雄たちが興したモンゴル帝国は、いったいどんな国だったのか? その興亡を追いながら、中国に与えた影響や文化についても紹介していきたいと思います。

チンギス・ハンの台頭~モンゴル帝国の隆盛

12世紀中頃のモンゴル高原は、いくつもの部族が覇権を巡って争う、殺伐とした状況下にありました。そんな中、ボルチギン氏族の有力者の子として生まれたテムジン(後のチンギス・ハン)は、敵対部族に父を毒殺されたり、奴隷に身をやつしたりと過酷な幼年期を過ごします。しかし、それらの経験をバネにたくましい青年に成長したテムジンは、次第に優れた武勇や軍事的才能を見せるようになります。
やがてワン・ハンやジャムカといった強力な味方を得たテムジンは、父の死後ちりじりになっていたボルチギン氏族を再結集。幾多の敵対部族を斬り従えながら、モンゴル高原の統一を進めていきます。そして1206年、モンゴル族による最高意志決定機関・クリルタイを開き、統治者の証"ハーン"の称号を与えられます。こうしてチンギス・ハンと名乗るようになった彼は、遊牧国家・モンゴル帝国を打ち立てるのでした。
その後20年の歳月をかけて、東は中国、西は中東や東欧の国々を撃破してゆき、ついにユーラシア大陸を東西に跨ぐ広大な領土を手中に収めます。チンギス・ハンというと"数十万の騎馬軍団を率いる無敵の武将"というイメージが強いですが、実際は帝国初期の政治と法制度を整え、形を持たなかったモンゴル語に文字を制定するなど、文治の面でも優れた才能を見せています。

フビライの即位~元王朝の樹立

チンギス・ハンの死後、その息子たちの代にはモンゴル帝国は統一を保っていましたが、時が経つにつれ"ハーン"の地位をめぐる争いも起こるようになり、帝国は緩やかに分裂していきます。中央アジアや中東には独立政権が台頭したこともあり、1264年に"ハーン"となった第5代皇帝フビライは、モンゴル高原よりも東の領域を安定させることに力を注ぐようになっていきます。
敵対国・金の滅亡後、フビライは臨安(現在の杭州)を首都として抵抗を続けていた南宋も攻め滅ぼし、中国全土を自身の直轄領として統治するようになります。この時期にモンゴル帝国の国号も"大元"と改めますが、中国では、これまでの漢民族の王朝と同じように漢字一文字で"元"と称されています。この改名劇からは、これまでの王朝と同様に中国全土を長期的に支配しようとするフビライの積極的な構想がうかがえます。その後フビライは、朝鮮半島の高麗を服属させ、さらに2度におよぶ日本遠征も行ないます。暴風雨により失敗に終わったこの遠征は"元寇"と呼ばれ、今日でもよく耳にすることがあります。

最盛期~モンゴル高原への北走

フビライの死後、元王朝は分裂した西方諸国と和睦を図り、再び連合国家として再編されていきます。政治の面では関税を廃止して諸外国と広く交易を行なったため、海陸のシルクロードは空前の活況を見せるようになります。その様子は、マルコ・ポーロやイブン・バトゥータらの旅行記からも、うかがい知ることが出来ます。パクス・モンゴリア(モンゴルの平和)と呼ばれるこの時代は、まさに元の最盛期と言えるでしょう。
しかし14世紀になると、天災や疫病が相次いで、元の国力は急速に衰えはじめ、各地に反乱が起こり始めます。大都の宮殿で政権闘争にばかり明け暮れていたモンゴル貴族には、これを討伐する余裕はありません。草原に馬を駆っていた祖先の気概と武勇は、すでに彼らから失われていたのです。そして1368年、皇帝トゴン・テムルは朱元璋の立ち上げた明王朝に追われるようにしてモンゴル高原へと敗走し、元の中国支配は終わりを迎えるのでした。

モンゴル帝国=元王朝が、中国にもたらした影響とは?

中国最初の異民族王朝である元は、中国に様々な遺産を残しました。いくつか例を挙げるなら、まずは「千戸制」と呼ばれる制度があります。百戸、十戸といった単位で兵士を区分していき、それをまとめた一団(=千戸)の長に一族や功臣をあてる兵制であり、統率のしやすさから明王朝でも取り入れられました。
また、ヨーロッパや中東からは数学、医学といった科学技術が伝わり、ペルシャからはコバルト染料を用いる文化が導入されています。これを用いた青花磁器の製造は、元の時代からはじまり、明代には景徳鎮として大成しています。そして、中華料理に与えた影響も見逃せないところです。バターを大量に用いる調理方法はモンゴル料理の影響であり、宋以前は淡泊な味付けだった中華料理は、この時期から油を大量に使う肉料理に変化していったと言われています。


現在、東京都江戸東京博物館にて開催中の「チンギス・ハーンとモンゴルの至宝展」では、モンゴル帝国の創世記から衰退期までに作られた国宝級の品々が159点も展示中。さらに同展のイヤホンガイドでは、大の中国通であり「大秦帝国」に応援コメントも寄せてくださったシンガー・ソングライター吉川晃司さんによるナビゲートも視聴できるとのこと! この機会を利用して「朱元璋」にも登場する強大な国家・モンゴル帝国について詳しくなってみてはいかがでしょう。歴史の流れを知ることで「中華歴史ドラマ列伝」シリーズがより一層楽しめるはずです。