第32回:見応えバッチリ! 「三国志」オススメの合戦を大特集!!(其之二)

文:中国エトセトラ編集部

“長坂の戦い”など、ドラマでは張飛が大暴れするシーンが満載

阿斗(後の劉禅)を救うべく獅子奮迅の活躍を見せる趙雲

大迫力の合戦シーンが次々に登場!

仁君として知られる劉備。曹操、孫権を相手にどう立ち回るのかも見どころ

圧倒的な武勇を誇り、敵陣へと斬り込む関羽

野外の戦闘だけでなく、劇中では迫力の攻城戦も描かれる

呉の若き君主・孫権。剣を手に何を思うのか?

第3部「赤壁大戦」のレンタルが始まり、1話~42話が収録された前篇DVD-BOXが12月10日(金)に発売、さらに2011年1月10日(月・祝)よりBSフジでの放送が決定するなど、続々とリリースされる中華歴史ドラマ列伝「三国志」。今回は"赤壁の戦い"以降の有名な合戦をまとめてご紹介したいと思います。

夷陵の戦い(222年)

赤壁の戦いののち、劉備が蜀を攻略したことで、曹操・孫権・劉備による三国分立の形勢が固まった。ここで三国抗争の火薬庫となったのが荊州である。劉備は荊州に関羽を駐屯させていたが、孫権はかねてから荊州攻略を狙っていた。219年、劉備が漢中に侵攻し、同時に関羽が曹操軍の荊州側の出城・樊城を攻撃すると、孫権は呂蒙を派遣して関羽の背後を襲わせる。襄陽城を奪われた関羽は孤立し、呂蒙に捕らえられて斬首された。

これに激怒したのが劉備である。221年、劉備は蜀漢皇帝として即位すると、すぐさま関羽の復讐戦を準備し始めた。ところがその最中、今度は関羽とならぶ宿将である張飛が部下の裏切りで命を落としてしまう。趙雲らの反対を無視して親征の軍を起こした劉備は、三峡沿いに進撃して次々に呉の拠点を落としていった。

一方、呉では孫権が陸遜を総指揮官に任じてこれに対抗。陸遜は、一年以上もじわじわと後退して劉備を呉の懐深くひきこみ、その陣営は50箇所におよんだ。劉備の布陣を伝え聞いた魏の曹丕は「劉備は戦の仕方を知らぬのか」と言ったと伝えられる。旗揚げ以来の親友ともいえる(演義では義兄弟)関羽・張飛を殺された劉備の怒りは凄まじく、その精神状態は常軌を逸していたかもしれない。こうして222年、陸遜は延々と連なる劉備の陣に火攻めを仕掛け、不意をつかれた蜀軍は大敗した。蜀は、馬良をはじめとする優秀な幕僚が次々に戦死、数万の兵とともに荊州を完全に失ったのである。

夷陵の戦いは、周瑜、呂蒙亡き後、彗星のように登場した呉の陸遜のデビュー戦である。演義では、敗走する劉備を追う陸遜が諸葛亮の仕掛けた石兵八陣に迷い込んで追撃を断念するエピソードが描かれているが、これはもちろん創作である。

街亭の戦い(228年)

劉備亡きのち、諸葛亮は南蛮征伐をおえて蜀の内政を安定させると、ついに魏討伐のための北伐に乗り出した。227年、諸葛亮は出陣の準備を整えると、劉備の後を継いだ劉禅に「前(さきの)出師(すいし)の表」を奉った。「臣亮もうす。先帝創業いまだなかばならずして中道に崩殂せり...」ではじまる文章は、穏やかな口調の中に、ゆるぎない決意をうかがわせ、古来から名文として名高い。この中で諸葛亮は、劉備に対する恩顧とそれに応えるための魏討伐の決意を切々と述べた。

この時の諸葛亮の作戦は、趙雲と鄧芝を囮に魏の曹真の本隊を引きつけ、その隙に祁山一帯を占拠して本格的な討伐作戦の足がかりにしようというものであった。戦況は初め蜀に有利に進み、天水、南安、安定の三郡が蜀側に寝返っている。後に、諸葛亮の志を継いで北伐を主導する姜維が諸葛亮に降伏したのは、この時である。危機感を強めた魏では、宿将・張郃を起用して諸葛亮に対抗させた。

諸葛亮は参軍だった馬謖を抜擢し、要衝である街亭の守備にあたらせる。馬謖は、襄陽の名門である馬氏の五男として生まれた。長兄は「馬家の五常、白眉最も良し」と称された馬良である。丞相・諸葛亮の信任を受け、若い馬謖は有頂天になったのかもしれない。あろうことか、諸葛亮の指示を無視し、山上に陣を構え、副将である王平の諌言にも耳を貸さず、無意味な奇策にこだわった。その結果、張郃によって水路を遮断され士気が落ちた蜀軍は、魏軍の総攻撃を受けひとたまりもなく潰走してしまう。ただ、副将・王平のみは1000人の手勢を指揮して陣を堅守したので、張郃は追撃を諦めている。

この敗戦によって蜀軍はせっかく確保した祁山一帯の拠点を失い、天水、南安、安定の三郡は、再び魏に降伏してしまった。

敗戦の責任を問い、諸葛亮は目をかけた馬謖を断腸の思いで処刑した。これが「泣いて馬謖を斬る」という故事成語の由来である。また、示しを付ける意味で、諸葛亮自身や趙雲の位も降格している。こうして、諸葛亮の北伐は、その第一歩から致命的な躓きを記すことになったのである。

五丈原の戦い(234年)

五丈原の戦いは、諸葛亮が行った魏討伐の戦いで5回目の合戦にあたる。231年の第4次北伐から3年後のことで、蜀軍は10万の兵力を動員したと言われている。対する魏では曹操の孫・曹叡が司馬懿を総大将としてこれに当たらせた。

司馬懿は渭水の南岸に砦を築き、守りに徹した。蜀軍はたびたび陽動作戦を行い、あらゆる手段で司馬懿を挑発し、魏軍を砦の外にひきずり出そうとしたが、司馬懿は曹叡の勅命まで利用して全軍の統制を保ち、これを阻んだ。両軍の対峙は100日余りに及び、この間、諸葛亮は呉に働きかけて。魏の出城・寿春を攻撃させる。だが、魏はこの両面作戦をしのぎ、曹叡自らが寿春救援に出馬するにおよんで、孫権は全軍を撤退させてしまった。

こうして234年8月、諸葛亮は陣中で病死し、蜀軍は撤退を始める。司馬懿は急遽、追撃を命じたが、蜀軍が整然と反転して攻撃態勢にうつるさまを目の当たりにして即座に兵を引いた。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という諺はこの故事をもとにしている。撤退後の諸葛亮の布陣を視察した司馬懿は「天下の奇才なり」と、感嘆の声をあげたという。

囲碁の名人戦を見るような五丈原の戦い。主役はもちろん諸葛亮と司馬懿である。こののち、諸葛亮の意志を継いで北伐を担う姜維と、司馬懿と見事な主従の連携を見せる曹叡の熾烈な戦いが展開していくことになる。


「三国志」を題材にしたマンガやアニメでは"五丈原の戦い"以降の物語が描かれることが少なく、魏・呉・蜀がその後どうなってしまうのかを知らない人も結構いる模様。今回のドラマ版では、そのあたりもバッチリ描かれているので、最終話までしっかり観れば「三国志」の新たな魅力を発見することが出来るはずだ。