節義と謀略のはざまに生きる 「三国志」に名だたる"白の軍師七人"

文:中国エトセトラ編集部

董卓、曹操、そして呂布の下で翻弄された陳宮。時代が少し違えば、彼の活躍の場は増えていたはず。

諸葛亮が登場する以前まで、劉備を大いに支えた徐庶。母思いの心優しい軍師である。

死に謎が残る荀彧。曹操の臣下として我を持った的確な意見を言える人物であった。

『レッドクリフ』などでも、人と人の和を取り持った姿が印象的な魯粛。彼のような気配りも軍師には大切だ。

呉を支えた若き軍師・陸遜。つまらぬ誤解から悲劇へ……というのは、潔白な軍師の宿命か?

主を扶けて知略を競う軍師の存在は『三国志』のみどころの一つ。しかし、彼らの活躍には、どこか陰湿で腹黒いイメージがつきまとう。前回紹介した「黒の7人」に引き続き、今回紹介するのは、礼節を重んじ、正義をつらぬこうとした「白の7人」だ。

[壱]陳宮(ちんきゅう 生年不明~198年)

『三国志演義』(以下『演義』)では呂布の軍師として曹操を苦しめる陳宮。董卓暗殺に失敗して洛陽から逃亡する曹操を助けるが、呂伯奢一家を皆殺しにする冷酷さを見て、曹操を離れ呂布に付く。最後は主の呂布に義理をつくし運命をともにする悲劇の参謀だ。エン州出身の陳宮は、義理と度胸のある男として人望があった。はじめ曹操に仕えていたが、曹操が徐州に出陣した隙に、なぜか張バクらと計って呂布を迎え入れてしまう。だが呂布に陳宮を使うだけの器量はなく、その献策が用いられることはなかった。下ヒ城に呂布を降した曹操は、陳宮の命を惜しんで涙を流したという。陳宮がなぜ曹操を裏切ったのか、その理由は正史『三国志』にも明かではない。

[弐]諸葛亮(しょかつりょう 181~234年)

ドラマ『三国志ThreeKingdom』では後半の主役と言っても過言ではない。『演義』の諸葛亮はあざといとも言える作戦を次々と成功させる天才軍師として描かれる。蜀を建国する劉備が「三顧の礼」の末に軍師として招いた故事はあまりにも有名だ。しかし実際は、にわか政権だった蜀の内政を安定させた丞相としての仕事が評価されている。諸葛亮は小手先の軍略よりも経世済民に秀でた実務派の政治家だったのだ。それでも、劉備の遺志を継いで、当時すでに盤石の大国だった魏に北伐を行い、五丈原の戦いで陣没する。墓は諸葛亮の遺言によって質素に作られ、着衣のまま副葬品もない埋葬だったという。義のため不可能に挑んだ諸葛亮の姿は、哀しさと美しさをともなって人々に記憶されているのだ。※ちなみに、本記事のTOP画は諸葛亮

[参]徐庶(じょしょ 生年不明~234年)

徐庶は本名を単福という。もとは義侠に生きる剣士だったが、思うところあって剣を棄て、学問を志した。荊州では司馬徽水鏡先生の門下生というから、相当研鑽をつんだに違いない。徐庶は、新野に居候していた劉備に仕官し、「臥竜」諸葛亮を劉備に紹介したことで知られる。だが、のちに母親が曹操の捕虜になったため、曹操の幕僚となったが、それほど出世はしなかった。『演義』では、息子が曹操に降伏したと知った母が自殺し、徐庶と曹操の間にわだかまりができる。心では「二君にまみえず」、劉備への義理を通す徐庶の姿を演出するのである。

[四]荀彧(じゅんいく 163~212年)

潁川の名門荀氏に生まれ、若くして「王佐の才」をうたわれた、折り紙付きの賢才である。荀彧を迎えた曹操は「我が子房なり」と喜び、以後、特別な信頼を寄せた。軍・政両面から曹操にアドバイスを行い、河北平定に大きく貢献したが、赤壁の敗戦後、曹操が漢王朝簒奪の野心をあらわにすると、ただ一人これに反対する。それからほどなくして、荀彧は従軍先の寿春で没した。その死は自殺とも悶死とも言われ、曹操からの手紙が原因との説もある。『正史』に「涼しげな容貌で、風格を備えている」と評される紳士的な官僚としての印象が、主君との対立から死に追い込まれる悲劇の軍師のイメージを増幅させるのかもしれない。

[伍]荀攸(じゅんゆう 157~214年)

荀彧の年上の従子(おい)として知られる曹操の軍師。郭嘉とならんで戦術的な献策をおこない、呂布討伐や官渡の戦いで活躍する。荀彧とは対照的に地味な風采で、主人の曹操から「一見愚鈍で臆病に見えるが、内に英知と勇気を宿す」などと、よく考えると失礼な評価をされている。あまりに慎み深い性格のため、その行状がほとんど人に知られることがなく、『正史』を記した陳寿は、荀攸の正確な伝記は伝わっていないと述べている。謹厳実直、仕事については口が固く、石橋を叩いて渡るような荀攸には、他の軍師に見られるようなドラマティカルな面がない。しかしそれこそが、主君の知嚢とし存在する軍師の本来の姿かもしれない。

[六]魯粛(172~217年)

徐州出身の魯粛は、近隣の若い者を集めて狩猟にかこつけた軍事訓練をするなど、相当な暴れ者だった。村長から「魯家の気狂い息子」と呼ばれていたほどだという。若き日の織田信長を思わせるエピソードだ。周瑜とのつきあいから孫策に仕え、のちに赤壁の戦いでは、劉備との同盟を推進して曹操に対抗した。なぜか『演義』では、諸葛亮と周瑜にはさまれて困惑する、無駄に良い人な中間管理職になっているが、益陽での「単刀赴会」では関羽を相手に荊州南郡変換を約束させるなど、骨太な参謀なのである。

[七]陸遜(183~245年)

『演義』では白面の美青年として描かれる陸遜、その容貌は不明だが、『正史』でも非の打ちどころのないクリーンな参謀である。21才の時に孫権に仕え、その才能を認められて、周瑜・魯粛・呂蒙につぐ大都督となる。夷陵の戦いで劉備を破り、のちには丞相として孫権を支えた。しかし、ここで思いもかけない災難が陸遜を襲った。孫権の後継者争いに巻き込まれたのである。つまらない誤解から孫権は陸遜を疑い、問い糾した。孫権からの度重なる詰問の手紙を読んで、陸遜は憤死したのである。忠義を捧げた主君からのショッキングな手紙が死因になるというのも、「悲劇の軍師」の一つのパターンだろうか。