三国時代を終わらせた統一王朝"晋"の実態を徹底紹介!!

文:中国エトセトラ編集部

天才的な頭脳を持ち、晋建国の礎を築いた司馬懿

司馬懿を重用した魏の初代皇帝・曹丕。

司馬懿にとって最大のライバルである諸葛亮

劇中では、ド迫力バトルが次々に展開!

三国間の争いも、ついにクライマックスに突入!

ついにシリーズ第7弾"危急存亡"がリリースされ、DVD-BOX後篇も発売となった中華歴史ドラマ「三国志」。野望を露にした司馬懿とその一族が興した新国家・晋により、三国が統一されることで幕を閉じる本作だが、はたして晋とは、どんな国だったのか? 今回は、三国時代がいかにして終焉を迎えたのかを追うとともに、司馬一族の台頭から晋の興亡に至るまでの流れを、順を追ってご紹介したい。

"晋"の建国

魏の曹操に才を見出された司馬懿は、曹操の没後も、曹丕、曹叡らに重用され、厚い信任のもとに魏の元老としての地位を固めていた。だが、そんな彼を快く思わない曹氏一族の実力者・曹爽の圧力により、一時、第一線から身を引くことを余儀なくされる。しかし、国政の乱れを察するや即座にクーデターを起こし、息子の司馬師、司馬昭とともに政権を奪取する。やがて司馬懿が亡くなると、263年に司馬昭は蜀を滅ぼし晋王の位につく。漢王朝の実力者として魏王の位についた曹操と同じ立場に立ったのだ。265年に司馬昭が死ぬと、その息子・司馬炎が魏の元帝から禅譲を受けて皇帝(武帝)となり、新王朝"晋"を打ち立てる。そして280年には呉を滅ぼし、ついに三国統一を成し遂げた。

"八王の乱"勃発

禅譲という穏便な手段をとることによって、晋は魏の完成された政治制度や豊かな国力を、そっくりそのまま受け継ぐことができた。ところが、天下統一を成し遂げたとたん、肝心の皇帝司馬炎が堕落の一途をたどりはじめる。司馬炎は、もともと後宮に5千人もの美女をかこっていたが、呉を滅ぼしたことで、ここに孫皓(呉の四代皇帝)がかかえていた5千人の美女も加わることとなり、首都・洛陽の後宮は1万人を超す美女で溢れることに! 司馬炎は夜ごと、後宮に羊を放し、その羊が歩みをとめた部屋の美女を選んで寝所をともにしたと言われている。

司馬炎のあとを継いだ恵帝も、暗愚を絵に描いたような人物だった。恵帝の代になると、政治の実権は皇后の賈氏にわたり、政権を奪い返そうともくろむ皇族・趙王がクーデターを画策。賈皇后を殺害した趙王は、自ら皇帝の位についてしまう。これら一連の騒動を含む"八王の乱"と呼ばれる血なまぐさい皇族どうしの権力争いは、その後6年余りも続き、晋の国土はすっかり荒廃してしまう。

このような政情を嫌悪した多くの知識人たちは、政治の場を離れ、隠者となった。彼らは、当時はやりの老荘思想の影響を受け、俗世に背をむけて華麗な詩文の創作や哲学的な議論にふけった。こうして、官僚制を支える士大夫たちが国政から離れることで、晋の政治基盤は崩壊の一途を辿っていくのだった。

再興、そして滅亡へ

晋の国力が弱まると、その支配下にあった西北辺の異民族・匈奴が晋から独立。首長の劉淵は大単于となり、308年には皇帝を自称して漢国を興した。その跡を継いだ劉聡は、311年に晋に攻め込み洛陽を占拠。さらに316年には長安も陥落させて晋の愍帝を殺した。この後、約130年にわたり、北中国は「五胡十六国」と呼ばれる、北方遊牧民族の王朝が盛衰を繰り返す時代に突入するのだった。

一方、晋の皇族の一人司馬睿は、ただ一人江南に逃げ延びて、かつて呉の都であった建康(現在の南京)を首都として晋を再興した。建康は、旧都の洛陽から見れば東に位置するため、司馬睿が興した晋を「東晋」、それ以前の晋を「西晋」とも呼ぶ。東晋は100年あまり江南を支配したが、やがて下級官吏出身の劉裕によって滅ぼされた。こうして晋は、420年に完全に滅亡してしまい、中国は「南北朝時代」という新たな局面を迎えることになった。


「三国志」といえば、魏・呉・蜀が一進一退の攻防を繰り広げる物語前半がクローズアップされがちだが、晋による三国統一にいたるまでの過程を描いた後半にも、おもしろいエピソードが多数盛り込まれている。この辺りの物語も把握しておけば、ドラマ作品をよりいっそう楽しむことが出来るはず!!!